「ただいまーっ」

 そう言って扉を開けた祐無の顔は、笑顔だった。
 自分はまだ、この家の玄関を「ただいま」と言って開けられる。
 その事実が、今はたまらなく嬉しかった。

「お邪魔します」
「秋子ー、上がらせてもらうわよー」

 祐無に続いて、祐一と祐子も水瀬家に入ってきた。
 それに反応して、リビングのドアが開く。

「おかえりなさい祐一く――――うぐっ!? 祐一君が2人!?」

 しかし祐無の予想に反して、リビングから出てきたのは秋子ではなくてあゆだった。
 祐一と祐無の外見が瓜二つのため、「祐一君が増えたっ!?」とでも考えているのだろう、彼女はこれ以上ないくらいに驚いている。
 そのあゆに数秒遅れて、秋子も玄関に姿を現した。

「いらっしゃい姉さん、祐一さん。それとお帰りなさい、祐無さん。
 ここで立ち話をするのもなんですから、遠慮しないで中へ上がってください。……ほら、あゆちゃんも」
「――――う、うん」

 秋子はそれだけを言うと、呆然としているあゆの手を引いてまたすぐにリビングへと戻っていった。
 来客用のスリッパは、最初から2足分並べられている。
 「秋子さんもこうなることを知ってたんだな」と母と叔母とを恨めしく思いつつ、祐無はリビングに続く廊下を歩きだした。

「あ、そうだ祐無」
「はい?」

 リビングのドアまであと一歩というところで、祐無は祐子に呼び止められた。
 呼び止めた祐子は、持ってきた手提げ鞄を祐無に見せるようにして持ち上げている。

「あんた、先に部屋に行って着替えてきなさい、服なら持ってきてあるから」
「あ、はーい」
「姉さん、その前にちょっと質問が……もしかして、今のが名雪か?」
「「えぇっ!?」」

 まるで見当外れの祐一の言葉に、祐無だけでなく祐子までが意表を突かれていた。
 2人とも、手提げ鞄を手渡している体勢で呆然としてしている。
 だいたい、あゆと名雪とではその外見は似ても似つかない。
 祐一がすこしでも2人のことを覚えていたのなら、見間違えるはずなどないのだ。

「今の、あゆちゃんよね……? 秋子だってそう言ってたし」
「うん、そうだよ」
「あれっ? そんなこと言ってたか?」
「……聞いてなかったのね」
「ハイ……」

 祐一の記憶は、七年前の冬休みの間のことだけがポッカリと抜け落ちている。
 それを無理に思い出そうとしていたので、彼には周囲の会話を聞く余裕すらなかったようだ。

「あ……そっか、このままじゃいろいろと不便だよね。どうする? 今のうちに治したげよっか?」
「あんたはいーから早く着替えてきなさい。そういう面白いことは、皆の目の前でやらないと損じゃないの」
「相変わらずいい性格してるんだね、お母さん……」

 肝心の記憶がない祐一は、当事者であるにもかかわらず、2人の会話を理解することができなかった。




 祐無が『自分自身の』私服に着替えてからリビングに入ったとき、その場は不思議な静寂に包まれていた。
 祐一が真正面から名雪やあゆを凝視していて、あゆはその視線を意識しながら、ときどき恐る恐るといった感じで祐一の様子を窺っている。
 名雪は祐一の隣に座っているが、原因のわからない違和感に疑問符を浮かべていた。
 真琴はあゆの隣、名雪の正面に座っていて、本能的に祐一を警戒している。
 秋子と祐子はそんな子供達の様子を微笑みながら(片方はにやけながら)見守るつもりでいて、キッチンで昼食の準備をしていた。

「あ、名雪起きたんだ。おはよう」
「うん、おはよ〜」

 リビングに入った祐無はどうしたらいいのかわからず、とりあえず無難に、名雪に挨拶することにした。
 今日は秋子から部活は休むように言われていたので、彼女は祐無が出かけた時刻にはまだ寝ていたのだ。

「……それで、どなたですか?」
「そんなこともわからずに挨拶してたのかお前は」

 名雪の天然ボケに、祐無はつい、いつもの調子でツッコミをしてしまった。
 ちなみに今の口調は意図したものではなく、本当にいつもの癖で出てしまったものだ。
 口調だけではなく、声音まで祐一のものになっている

「あれ? いま喋ったの祐一?」
「……『祐一』ってどっちの?」

 しかし名雪はさらなる天然ボケをかましていたので、祐無は早々に説明を始めることにした。
 リビングのソファには4人しか座れないので、テーブルに手を付いて床に座る。位置的には祐一とあゆが居る側の端だ。
 スカートが上手く円形に広がるように意識しながら、通称『女の子座り』の格好で腰を下ろした。

「名雪やあゆが七年前に会った『祐一』はそっちの男の子だけど、今まで一緒に暮らしてた『祐一』は男装してた私だよ」

 言ってから、祐無は祐一の前に置いてあったレモンティーを口に運んだ。
 祐一はコーヒー派だが、他の3人が紅茶なので彼もそれに合わされたのだろう。
 だがよく考えると、お茶の用意もされていない祐無に比べれば上等な待遇である。

「…………」
「あーッ!! 知らないオンナが祐一と間接キッスしたぁ!!!」
「ふ、フキンシンだよ祐一君っ!」
「俺かよ!?」

 名雪は絶句し、真琴は大声で騒ぎ、あゆは(祐無ではなくて)祐一を批難した。
 3人とも、見事に祐無の話を聞いていない。
 残る祐一は状況についていけていないので、動揺してしまったが静かなものだった。

「私は真面目な話をしたいんですけどねッ……!!」

 ダドンッ!! とおよそそれらしくない音を立てて、祐無がレモンティーの入ったコップをテーブルに置いた。
 それでも中身をこぼしていないあたりが、いかにも良家のお嬢様らしい。
 こめかみを引きつらせていても、テーブルを汚すような真似は絶対にしない。

「私は祐一のおねーさんなの。だからこういうことはし慣れてるし、家族だから変な意識もしてないの。わかる?」
「「「う、うん……」」」

 凄みの利いた祐無の言動で、リビングは一気に静まり返った。
 静かになってくれたのはありがたかったのだが、そのせいでキッチンに居る誰かさんの笑い声が聴こえてくる。
 結果として、祐無の表情はさらに険しくなった。
 愛し愛される間柄にある母子なのだが、いつか決着をつけなければならないかもしれない。

「で、でもちょっと待って。私、いとこなのに祐一にお姉さんが居たなんて知らないよ?」
「だろうね。私、生まれなかったことにされてたから。だからこれが、私が香里の誕生日を祝ってあげられなかった本当の理由」
「あっ……」
「うぐ?」
「あう?」

 祐無の説明はひどく手抜きなものだったが、名雪はそれだけで充分に理解できた。
 香里の誕生会は百花屋で行われたのでバイトのあゆもその場に居たのだが、彼女は仕事中の身であったために、そのときの祐無の様子をよくは知らない。
 
「じゃあ、やっぱりさっき言ってた男装って……」
「事実だよ」

 本物の祐一とは違って、祐無は恋愛感情に敏感だった。
 だから当然、名雪とあゆの『祐一』に対する想いに気が付いている。
 それだけに留まらず、真琴の気持ちがまだ家族愛に似た幼いものであること、栞がまだ恋に恋しているだけに過ぎないこと、舞は本当に純粋な友情から自分と接してくれていたことなど、それらすべてを見抜いていた。

「あー、でもほら、これからは本人が近くに居るんだし……ね?」
「……うん」

 祐一と祐無が何故そんなことをしていたのか、その理由まではわからなかったが、とりあえず名雪は、祐無と祐一の違いを理解した。
 だが、やっと再会できたと思っていた相手が実は本人ではなく、しかも女だったというのは相当のショックだ。
 名雪は七年前までの本物の『祐一』だけにではなく、この三ヶ月間の『祐一』にも同じく恋をしていた。
 そのショックは、そう簡単に振り払えるものではない。

「えっと……キミが実は祐一君で、だけど昔の祐一君はこっちの人で……うぐ?」
「上手く言えてないけれど、言いたいことは多分、それで合ってるよ」

 そして名雪だけでなく、あゆもなんとか自分の知っている『祐一』について理解しようとしていた。
 あまり賢くはない彼女でも、今の名雪たちの雰囲気から、いま話されていたことが真実で、それがとても真剣な話だということくらいは読み取れている。

「あゆが七年前に出逢った本物の祐一はこの人で、今年になって再会したと思っていた『相沢祐一』は実は私の変装で、七年前とは別人だったの」
「で、でも! 祐一君は、ボクのこと覚えててくれたよっ!?」
「だって私、祐一からあなたのことを聞いてたもの。祐一とあなたがどこでどんな遊びをしていたのかまで、しっかりとね」
「うぐぅ。そ、そうだったんだ……」

 あゆも確かに最近の『祐一』が好きだったが、本当に恋をしたのは七年前の本物の祐一にだ。
 そのためか、彼女の場合は今のような友達みたいな関係でも満足できていたので、『好きだ』という想いは名雪ほど強くない。
 精神的なショックは、名雪と比べれば、まだ軽いものだった。
 それどころか意外なことに、彼女はこの状況をポジティブに捉えることができていた。
 今までの『祐一』(つまり祐無)は女の子に無頓着だった(当たり前だ)ので結ばれるのは絶望的だと思っていたが、またイチからやり直せれるということになるのだから、今度こそ本当の『祐一』と恋仲になれるかもしれない。
 そう考えられるだけの余裕が、今のあゆにはあった。

「それじゃあ、あらためてよろしくね祐一君。ボクは月宮あゆだよ、七年ぶりの再会だねっ」

 だから彼女は、決して躊躇わず、自分の駒を振り出しに戻した。
 その小さな胸に、淡い、純粋な想いを込めて……。